教育訓練省 MINISTRY OF EDUCATION AND TRAINING 卒業論文 Graduation Thesis Document 「日常会話における日本語の終助詞「よ」「ね」 について ―ベトナム語に比べてー」 グループ3 グループメンバー Nguyen Thi T[.]
教育訓練省 MINISTRY OF EDUCATION AND TRAINING 卒業論文 Graduation Thesis Document 「日常会話における日本語の終助詞「よ」「ね」 について ―ベトナム語に比べてー」 グループ3 グループメンバー 指導教官 提出日 Nguyen Thi Thanh SB02432 Le Thi Tra My SB02038 Nguyen Thi Thanh Ngan 2019 年 12 月 23 日 - ハノイ、2019 年 12 月- 目次 要旨 はじめに 01 研究背景及び研究の目的 02 研究対象及び研究範囲 03 研究方法 .7 04 論文の構成 05 先行研究 .8 第 章:終助詞「よ」の用法 10 1.1 相手が知らないことに注意するため 10 1.2 話し手の意見・感情・判断を伝えるため .10 1.3 働きかけ文に使用するため 11 1.3.1 聞き手に命令するとき .11 1.3.2 聞き手に依頼・催促・勧誘・禁止するとき 13 1.4 「よ」の特殊な用法 14 1.4.1.「何が...よ」「どこが...よ」 14 1.4.2.「疑問詞...の(んだ)よ」 15 1.4.3.「~(の)かよ」 16 1.4.4.「どうせ...よ」 16 第 章:終助詞「ね」の用法 18 2.1 確認と同意を求めるため 18 2.2 依頼と勧誘文に使用するため .19 2.3 話し手の経験・考え・行動を知らせるため .19 2.4 会話埋め合わせ 20 2.5 注意喚起 .21 2.6.「ね」の特殊な用法 21 2.6.1.「~かね」 21 2.6.2.「よく...ね」 22 2.6.3 皮肉を表す .22 第 章:「よ」「ね」日本語の終助詞とベトナム語の比較 24 3.1 ベトナム語の終助詞の概要 24 3.1.1 ベトナム語の終助詞の定義 24 3.1.2 ベトナム語の終助詞の機能 24 3.2 日本語の終助詞「よ」「ね」に対応しているベトナム語の終助詞の比較 24 3.2.1 日本語の終助詞 「よ」「ね」とベトナム語の終助詞の共通点 .24 3.2.2 日本語の終助詞 「よ」「ね」とベトナム語の終助詞の相違点 .26 結論 29 付録 31 参考・引用資料 33 図表リスト (表) 表 1:日本語の終助詞「よ」に対応しているベトナム語の終助詞の例文 .31 表 2:日本語の終助詞「ね」に対応しているベトナム語の終助詞の例文 .32 (図) 図 1:終助詞の使用頻度男女差」 32 要旨 本稿では、ベトナム人日本語学習者が日本語の会話において、終助詞を上手に使用でき るようなるために、使用頻度の高い終助詞「よ」「ね」 に焦点を当て、研究した。本稿は 三章から構成されている。第一章では、「よ」について、第二章では「ね」について、第 三章では「よ」「ね」 日本語の終助詞とベトナム語の比較を述べた。研究の結果は以下の ようにまとめられる。 「よ」の用法は(1)相手が知らないことに注意するため、(2)話し手の意見・感情・判 断などを伝えるため、(3)働きかけ文に使用するた め、(4)「よ」の特殊な用法と四つ に分類できる。一方、「ね」の用法は(1)確認や同意を求めるため、(2)依頼や勧誘文 に使用するため、 (3)話し手の経験・考え・行動などを知らせる文に知らせるため、(4 )発話埋め合わせ、(5)注意喚起、(6)「ね」の特殊な用法と六つに分類できる。最後 に、日本語の終助詞「よ」「ね」とベトナム語と比較し た。その分析結果に基づき、ベト ナム人日本語学習者は日本語の終助詞を習得しやすく、日越・越日の通訳能力を向上させ る提案を述べた。 はじめに 01 研究背景及び研究の目的 言語とは、人間のコミュニケーションの手段である。しかし、命題内容を正しく伝達す るだけでは円滑なコミュニケーションを実現することは難し い。どのような文化であれ、 言語のやりとりの中で行われる伝達の本質は、その伝達がなされる仕方によって明らかに なることが多くて、野村 明衣 (2014)が述べたにより情報をどのように伝えるかは非常に 重要である。日本語において、発話をどのように伝達するかを表す手段の一つに終助 詞が ある。終助詞は助詞の種類の一つであり、種類がたくさんある。主に文末に現れ、文の様 々な意味を強調する。その中で、「よ」「ね」という 終助詞は日常日本語会話において男 女双方の話し手によって広く使用され、コミュニケーションを豊かにする機能を持つ終助 詞である。大 島 デイ ヴィッド 義 和(2013)は「よ」「ね」の使用は話し手の情報の捉え方 や聞き手への態度とも関係しているため、コミュニケーションに大きく影 響を与えると述 べている。したがって、自然な日本語会話の習得を目指す日本語学習者は円滑なコミュニ ケーションをするために、適切な終助詞の 使用方法を身につけなければならない。立 部 文 崇(2014)は終助詞「よ」 は、日本語学習者にとって、習得が難しい言語形式の一つと して 取り上げられることが多いと説明している。一方、高 民定(2011)は日本語教育にお いては、終助詞は初級レベルの比較的早い段階で教科書の 会話のモデル文を中心に導入さ れることが多いが、その習得に関しては上級レベルになっても使いこなすことは難しいと 指摘した。また、Trinh Thi Phuong Thao(2013)は使い方を誤った場合においては、聞き 手に不快な気持ちを与えてしまう恐れがあるとも説明している。 それに対し、実際の授業 では他の学習項目と比較してみると、終助詞に関する指導はほとんど具体的ではなく、教 科書の説明も不十分であるように みられる。Soysuda Naranong(1998)は一般の日本語学 習書では、「よ」「ね」を独立した学習項目として扱い、 紙面を割く ことは稀であり、「 よ」「ね」の使用が必須であるのか随意的であるのか、また、いかなる条件の下で使用す べきであるのかは説明されていないと 指摘した。そのため、多くの学習者にとって、終助 詞ははっきりした意味を持たないように見られ、使いこなすのは困難であり、日本人の使 い方と 同じように使ってみるというぐらいのものであった。自分の大学で日本語学習者と して教科書の会話で終助詞をアプローチするだけで、終助詞の用法 について詳しく教えら れない。そのため、日本語での会話において、日本語終助詞の使い方を完全に理解できて いなかったため、誤って使用する ケースが数多くみられ、中でも終助詞の「よ」「ね」の 場合が多い。 以上の理由から、本稿では、「終助詞「よ」「ね」」に焦点をあて、議論していきたい と考える。さらに、「よ」「ね」のような日本語の終助 詞とよく似た機能がベトナム語に も存在するため、終助詞「よ」「ね」が使われている例文を参考に、ベトナム語に翻訳し た際に終助詞がどのよ うになるか見てみる。同時に、終助詞「よ」「ね」の機能に着目し 、それぞれの言葉がベトナム語の終助詞に対応しているかを検討する。それによって、終 助詞「よ」「ね」に対応するのはベトナム語のどの終助詞で あるのか、また、日本語の終 助詞の機能とべトナム語の終助詞のどの機能が対応するのかについて明らかにすることが できると考える。 日本語でコミュニケーションをする際、普段友達と話す会話以外でも、場面によっては 敬語を使用しなければならない場合もでてくる。終助詞は話し 手の態度を表し、文を和ら げる効果がある。一方、Trinh Thi Phuong Thao(2013)はベトナム人日本語学習者が中・ 上級のレベ ルに到達できても、終助詞の運用力が高くないと指摘した。そこで、今回の研 究では、ベトナム人日本語学習者が、終助詞を用いた会話を上手に使用でき るようになる ため、コミュニケーションで用いられる終助詞に焦点を当てながら議論を進めていきたい 。また、終助詞学習者は機能と用法について単に想像するために、ベトナム語の終助詞に おける問題も取り上げてみる。 02 研究対象及び研究範囲 これまで、「よ」と「ね」の終助詞は様々な視点から研究がなされてきた。日本語の終 助詞の定義について、Soysuda Naranong(1998)と Trinh Thi Phuong Thao(2013)は「 終助詞は文の終わりに付けられ, 聞き手に対する話し手 の態度・判断を反映した表現の一 つである」と提言している。野村 明衣 (2014) は 日本語の終助詞は、文の終わりにあり、 その文を完結さ せ、希望・禁止・詠嘆・感動・強意などの意味を添えるものであり、書き 言葉と話し言葉の両方に現れる」と提言した。高 民定(2011)は「話し手 が命題内容の事 柄(言表事態)をどのように認識し、聞き手にどのように伝えようとしているかを表す「発 話・伝達態度のモダリティ」と提言した。本稿 では、終助詞の定義について Soysuda Naranong(1998)と Trinh Thi Phuong Thao(2013)のように考え る。 書籍や研究論文など調べるのを通じて、本稿で研究の対象としたものは日本語の終助詞 であり、主に日常会話では高頻度で使用される終助詞 「よ」「ね」のみである。他の終助 詞、イントネーション、「よ」と「よね」の違い、イントネーション型と終助詞の機能の 相関などについては 本稿では考慮していない。これらについては今後の研究課題としてお きたい。今回なぜ、終助詞「よ」「ね」に焦点をあてた理由としては、これら の終助詞が 最も広い範囲で高頻度に使用されているからである。「さ」「わ」「ぞ」「ぜ」「な」な どの終助詞は、それぞれ使用される場面が限定されており、上手に使用できていなくても、 実際の会話の上ではそれほど支障がでない。しかし、終助詞 「よ」「ね」は誤って使用す ると、聞き手の誤解を招く恐れがある。以上の理由で、本稿では「よ」「ね」という終助 詞のみに限定して研究を進めてい く。 そして、ベトナム語でも文末におく「Tiểu từ tình thái cuối câu」(直訳すれば、文末情 態小詞になる)がある。「Tiểu từ tình thái cuối câu」という語句は日本語の終助詞と似た 機能を持っているので、本稿では「ベトナム語の終助詞」という呼び方にする。ベトナム 人日 本語学習者にとって、母語の終助詞の用法を理解してから、終助詞「よ」「ね」をは じめとした日本語の終助詞の習得が早いのではないかという推測によ り、本稿ではベトナ ム語の終助詞を紹介する。また、日本語の終助詞とベトナム語の終助詞がよく似た機能を 持っているのか比較も行いたい。日本語の 終助詞とベトナム語の終助詞の共通点及び相違 点を理解することによって、会話の日本語の終助詞をより使いこなし、ベトナム人学習者 が日越・越日の通訳能力を向上させる方法を検討する。 03 研究方法 実際の日常会話からの様々な場面に応じた例題を取り上げ、日本語参考資料やベトナム 語参考資料からそれぞれの機能について徹底的に分析 し、「よ」「ね」のそれぞれの用法 を明らかにし、研究を進めていく。それらを含めて、日本語の終助詞に応じてベトナム語 の終助詞を取り上げ、両言語の終助詞機能における特徴を比べて共通点と相違点を述べる。 04 論文の構成 論文の内容は主に3章に組み立てている。第 章では終助詞「よ」の用法を説明した。 そして、第 章では終助詞「ね」の用法を説明した。第3章では「よ」「ね」日本語の終 助詞とベトナム語の比較を行った。 05 先行研究 Vu Thi Kim Anh(2005)は発言におけるベトナム語の 28 つの終助詞の役割を研究した。 多くの理論的側面に基づいて、ベトナム 語の終助詞の役割をまとめた。そこから、その理 論的根拠としてそれぞれの終助詞について具体的な例文を取り上げ、その例文における終 助詞の役割を 示した。研究の結果はベトナム語の終助詞は発言の行動における丁寧性を高 め、ベトナム語の感情的な内容を豊かにすることである。 Nguyen Thi Luong(1996)は、聞くために使用するベトナム語の 10 個の終助詞を研究し た。結果は終助詞がベトナム語の主 観の感情を表すツールの一つであるとした。この研究 は終助詞の特徴を述べただけでなく、ベトナム語に対する感情性を表す道具の豊富さにつ いて裏付 けでもある。ただし、これらの終助詞は聞くために使用するだけじゃなくて他の 機能もあるがこの研究にはその問題をまだ明確にしていない。 高 民定(2011)は「命題内容の事柄の領域」の観点から、終助詞「よ」「ね」「よね」 の機能を「話し手領域」、「聞き手領域」、「中立領 域」と3つの領域に分け、それぞれ の機能を分析、考察した。研究の結果は教科書の調査結果からは初級・中級教科書におい て終助詞の機能には偏った 使用が見られた。さらに、命題内容の事柄の領域が話し手、聞 き手、あるいは中立のどの領域のものであるかによって、または、その時の聞き手への働 きかけの目的によって異なる機能を持つ。しかし、分析した教科書は2種類だけで、結果 を一般化するにはまだ十分ではない。 Trinh Thi Phuong Thao(2013)は日本語における終助詞「よ」「ね」「よね」及びベト ナム人日本語学習者に対する「よ」 「ね」「よね」の指導法と用法について考察した。教 科書の機能分析から初級・中級教科書において終助詞の機能は偏った使用が見られる。日 本語の終 助詞は文表現の成立に関与する可能性によって大きなグループに分類されること を述べた。次に日本語における終助詞とベトナム語における終助詞の比較 も行った。また 、ベトナム人日本語学習者に対して「よ」「ね」「よね」の用法の理解度に関する調査も 行なった。調査の結果、初中級レベルのベトナム人学習者は 「よ」「ね」の基本的な機能 が理解できているが、状況によっては、それを使用するのはまだ困難であるといっている 。そのため、作家は終助詞の「よ」「ね」「よね」の使用法、それらの使い分け、誤用に ついての短い会話をビデオにした。 Soysuda Naranong(1998)は、主に陳(1987)説を踏まえつつ、「よ」「ね」「よね」 の具体的な使い方を指摘して いた。また、日本語教育の場での「よ」「ね」「よね」の用 法を指導する上での問題点をあげ、意味・機能・指導法について述べた。「よ」の用法 に ついて分析した結果、事柄に対する話し手の知識・判断が聞き手のそれよりも多く、聞き 手にそれを教える必要があると話し手が想定する時、 「よ」を使用するという。「ね」の 用法を分析した結果は、聞き手がある事柄に対する知識・判断を自分より多く持っている 、または同等であると話し手が判断する時に使用するという。「よね」はある事柄に対す る話し手の知識・判断を述べながら、その判断を聞き手に 確認する時に使われるという。 しかし、この研究は外国語の終助詞との比較をまだ行っていない。 終助詞「よ」「ね」の様々な研究をした上で、終助詞「よ」「ね」の使い分け方がたく さんある。しかし、Soysuda Naranong(1998)と Trinh Thi Phuong Thao(2013)の研究 はもっとも詳細に、分かりやすくまとめて分析して あるため、本稿は主に Soysuda Naranong(1998)と Trinh Thi Phuong Thao(2013)の研究を基に研究 を勧めていくこと にする。従って、他の方法によって「よ」「ね」の機能を使い分ける先行研究もある。例 えば、育鶯(2015)と高 民定 (2011)は注意喚起に関わる事柄が聞き手領域と話し手領域 のものである場合を分けた。議題内容が聞き手領域の事柄の場合については「よ」は ①「 聞き手の求める新しい情報告知のため」、②「聞き手が気付いていない新しい情報告知の ため」、③「聞き手の知っているべき事柄の告知の ため」、④「聞き手に対する行動要求 のため」という機能を持ち、「ね」は①「聞き手への命題内容の事柄」、②「聞き手への 命題内容の事柄」 に対し表すのである。命題内容が話し手領域の事柄の場合については「 よ」は①「聞き手に直接関わらない新しい情報告知のため」、②「聞き手に 直接関わる新 しい情報告知のため」、③「聞き手に直接関わる意思表示のため」に用いられ、「ね」は 「聞き手への命題内容の事柄に対する情報・意思受け入れ要求」という機能を持つ。 松岡 みゆき(2003)は話し手が話し手として存在する「談話場」と話し手が認識主体と して存在する「話し手の認識形成領域」という二つの 領域を別の存在として 捉えることが 、「よ」の機能を表現する際には有効であると示した。 曹再京(2000)は終助詞「よ」の機能が聞き手の注意を引きながら「会話を促進させる 機能」として、聞き手を会話に引き込む「誘導機 能」と次の会話への「予告機能」、「ポ ライトネスの機能」と分類した。 第 章:終助詞「よ」の用法 終助詞「よ」の機能に関して、Soysuda Naranong(1998)と Trinh Thi Phuong Thao (2013)は以下のようにいくつかの重要なポイントを取り上げていた。 ① 相手が知らないことに注意するため ② 話し手の意見・感情・判断を伝えるため ③ 働きかけ文に使用するため ④ 「よ」の特殊な用法 このように、コミュニケーションをする時に、以上のような四つの機能が特によく使わ れていることが分かる。以下、例を取り上げて、分析を進めていく。 1.1 相手が知らないことに注意するため この場合は聞き手が知らない内容、または話し手より認識の度合が低いと話し手が考え て使う「よ」である。 (1) A:「では、あなたはどなたですか」 B:「私は、ここの所長 ですよ」 (Thao:p.27) 例(1)では、A は B の身分を知らない、B は A に情報(自分の身分)を提供している。 相手の知らないことを指摘する用法は「よ」の 最も基本的な機能の一つであると言われて いる。 (2) A:「 2018 年、夏のオリンピックは中国で開催されましたね。」 B:「いいえ、ベトナムですよ。 」 (Thao:p.27) 例(2)のように、終助詞「よ」は聞き手が知らない情報を提供し、叙述する事柄に対し て話し手が強い確信を持っていることが確認できる。 以上、話し手が聞き手に情報を知らせる時の用法を検討した。「よ」が付くと、聞き手 に「教えるまたは知らせる」という意味が含まれ、聞き手に何らかの行為を行ってほしい、 あるいはその情報を知ってほしいというニュアンスが生じる のである。このことは話し手 が聞き手より認識の度合が高く、また聞き手にとって、その情報を得る必要があると考え る。 次に、話し手の考えや気持ちを伝える文について、聞き手に配慮したり、反論したり、 主張したりするようなニュアンスが生じることもある。 以下のような状況においては、「 よ」であるほうがより自然な文になる。 1.2 話し手の意見・感情・判断を伝えるため 芽、ドシドシと来て、消す、 芽 「試験に落ちたら、お姉ちゃんのせいだからね」 机に戻る。 美歩、芽の背中を睨み、フンと、ヘッドホンを放り投げ、頭まで布団をかぶる。 (Soysuda:p.89) 例(21)の「試験に落ちたら、お姉ちゃんのせいだからね」では、勉強中の芽は美歩が聞 いている CD がうるさいので、美歩と喧嘩してい た。芽は CD を何回も消したが、お姉ちゃ んがすぐにまたつけてしまうので、怒っていた。「ね」を使うことによって話し手は聞き 手が知って いるはずのない「私が試験に落ちたらあなたのせいにする」ということを知ら せた。この「ね」の用法は事実とは関係なく、話し手の態度を表す方 法である。話し手が 怒っている時に使われているため、会話を打ち切ろうとしているように聞こえる。 (22) ゆき子 「ごめんなさい、遅くなって」 洋― ゆき子 「どこほっつき歩いてたんだ、もう」 「あ…横浜でショッピングしてたの」 ゆきこ、根本からもっらた紙袋をニコッと示す。 ゆき子 「着がえてくる ね」 小走りに出ていくゆき子を見送っているひ らり。 (Soysuda:p.91) 例(22)の「着がえてくる ね」 については、話し手が家へ遅く帰って来て、色々聞かれる てしまうと心配される恐れがあるため、すぐその場を去ることができるように発言した。 「着がえてくる」と言い、話し手は自分の行動を知らせている。「ね」が加えられること により、話し手の判断は「あなたも私の行動を理解してい ると私は思っている」というこ とが示されて、聞き手からの共有を求めようとしている。 以上、二つの例では、話し手は聞き手が知っていない考え・行動を知らせる。「ね」を 使われる場合は「話し手の行動について伝える時」に生 じた聞き手に対する共有といった ニュアンスとは、「話し手に関する経験や考えについて伝える時」に生じたニュアンスの 点では正反対である が、事実とは関係なく、話し手の判断を示しているという点では同様 である。 次に、会話を理め合わたい時、「ね」が使われる場合を検討する。 2.4 発話埋め合わせ この「ね」には話し手が次の表現を計画する時間を稼ぐための間を埋め合わせるため、 また、会話のギャップを埋めたりするために挿入される言 葉に付随するものである。 (23) 「えーっとですねー、じゃあまず、この機械の動かし方を説明します」 (Thao:p.22) 例(23)では、「えーと」というフィラーと共に使われており、会話において埋め合わせ で表現する。ところで、この発話のような埋め合わせ の「ね」はよく「です」をつけ、「 ~ですね」という埋め合わせ表現になって使用されて、単独で使われることはないと言わ れている。 Trinh Thi Phuong Thao(2013)は,「ですね」という言い方は、注意喚起の意 味を含み、会話の順番を保持し、話し手を会話の中心にさせる働きがあり、注 意喚起の「 ね」をより丁寧度を高めた用法だと説明している。 以上、「ね」の用法は次の会話までの間の時間を少し稼いだり、会話の間隙を埋めたり する機能を持っている。これを間投助詞としての用法と述 べることもある。 次に、「ね」の注意喚起の用法を検討する。 2.5 注意喚起 注意喚起の「ね」は話し手が自分の会話に聞き手を引き込むために、自分の会話を強調 して、相手の注意を促すものである。 (24) A: 「今日ね。」 B: 「うん。」 A: 「会社へ行ったらね。 」 B: 「うん。」 A: 「電車で山田さんに会ったよ。」 B: 「へえ。めずらしいね。」 このように、この「ね」は文節末で使われており、話し手が会話を展開していくとき、 話し手の始める話を聞き手に持ちかけ、聞き手をその中に 引き込むもの、「注意喚起」の 「ね」は相手を自分の話題に引き込む機能を持つと言われている。 次に、「ね」の特殊な用法を検討する。 2.6.「ね」の特殊な用法 2.6.1.「~かね」 聞き手に対する共有、または同感してもらいたいときに「~かね」文について 検討し た。このような「ね」には、広い意味で会話をするため に、あたかも聞き手が話し手の考 えに対して同感しているかのようにみなして「ね」が使用 される。 (25) 悦子 「お父さん、どうしても、内地に帰らなきゃいけないの」 孝 「お前や佳江のためだ。あのままじゃ、お前たちの身に起こるかわからん からな」 悦子 「私、内地になんか、帰りたくない」 孝 「何を勝手なことを言ってるんだ。食料も手に入らない安東でどうやって 暮らせて言うんだ」 佳江 「私だって、本当は、内地になんか帰りたくないわよ。こっちの生活の方 はずっとよかったですもの。あーあ、どうして日本 は戦争に負けちゃっ たんですかね 」 (Soysuda:p.94-95)